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昔話の道しるべ 小澤俊夫の昔話エッセイ GUIDEPOST FOR FOLKTALES

第27回 時間の語り方
 昔話は時間を巧みに使って、ファンタジーをつくりあげています。
 いばら姫は一〇〇年問眠っていました。ところが目を覚ましたとき、一一五歳にはなっていません。一五歳の美しい少女のままなのです。写実的な小説では、こんなことは決して起こりません。誰の目にも明らかなことは、ここでは一〇〇年という時間がすっぽり切り取られていることです。
 時間というものは本来、決して途切れることはありません。昔話はそういう時問の本質を無視して、必要な時点から次の必要な時点へ飛んでしまうのです。
 日本の昔話で、子どもが生まれたときによくみられる語り口に、こんなのがあります。
「その子は一杯食わせれば一杯分だけ、二杯食わせれば二杯分だけ大きくなった」。あるいは「その子は茶碗で食わせれば茶碗分だけ、どんぶりで食わせればどんぶり分だけ大きくなった」。
 これも時間を点として語っているのです。時間というものは本来切れることなく継続しているし、人間や植物や動物の成長も、その時間に乗って、切れることなく継続しています。ところが、これらの語り口は、成長を継続したクレッシェンドとしてでなく、段階として語っているのです。一つの点から、次の点へと成長しているように語っています。
 いばら姫の一〇〇年がすっぽり切り取られていることも、どんぶり分だけ成長したと語ることも、いわば時間の基本的性質を無視した語り口と言えます。しかも、それらは特別な魔法によってではないのです。
 まるで当り前のように一五歳の少女として目ざめ、まるで当り前のようにどんぶり分だけ大きくなっています。つまり昔話では、特別な魔法なしにこんな奇跡が起きるのです。語り手も登場人物たちも、その奇跡に驚いていません。「不思議なことに」などという言葉は決して使われません。これらのことをまとめて言えば、昔話は無時間性の文芸であると言えます。
 昔話はこうやってファンタジー世界をつくりあげているのです。語る人も聞き手も、それを楽しんできました。「合理的でない」とか「そんなこと起きるはずがない」などと言わずに、ファンタジーとして楽しんできたのです。空想の物語をそのまま楽しむ精神は、いつの世でも人間にとって大切だと思います。
 子どもたちに昔話を聞かせることの大切な意義の一つはこの点にあると思います。空想物語を空想物語として楽しむこと、それをゆったりと体験させてやりたいと思うのです。それは人間として生きていく上で、人生の幅を広げることになるでしょう。
 昔話を見渡してみると、自然の理に反する出来事はいくらでも見つかります。浦島太郎は亀の背中に乗って龍宮へ行きましたし、桃太郎は桃から生まれた男の子です。しかし、昔の日本人はそれを少しもおかしいと思わず、合理的に考えればあり得ないことも、空想物語として楽しんできたわけです。
 現代は科学の時代という側面が強く出ているので、何でも合理的に考えがちです。それも大切なことかもしれませんが、人間の精神のバランスを考えた場合、一方ではこのような空想物語を楽しむ心のゆとりを、子どもたちから奪ってはならないと思うのです。

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